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東京地方裁判所 昭和42年(ワ)5580号 判決

原告

源川勝久

代理人

島田清

被告

寛路こと

和羅寛

青島武

代理人

中村護

ほか四名

主文

1  被告らは連帯して原告に対し二八五三万六一一七円およびこれに対する昭和四二年六月八日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金銭を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を原告の負担とし、その余を被告らの連帯負担とする。

4  この判決の第一項は仮りに執行することができる。

事実

一、当事者の求める裁判

原告―「被告らは連帯して原告に対し三一〇七万二五四〇円およびこれに対する訴状送達の日の翌日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金銭を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決および仮執行の宣言。

被告ら―「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

二、原告主張の請求原因

(一)  傷害交通事故の発生

昭和四〇年二月一六日午前九時二〇分頃、東京都墨田区向島三丁目四一番地先の都道において、原告が原動機付自転車(以下原告車という。)を運転して北進していた際、折柄北進して同所にさしかかつた被告青島運転の小型貨物自動車(以下被告車という。)が原告車の後部に追突し、これを原告もろともはねとばし、よつて原告に対し後記傷害を与えた。

(二)  被告青島の過失

前記都道は幅員約14.1米の見とおしのよい直線道路であつて、当時原告は時速約四〇粁で原告車を運転して、該道路の左側部分の中心線寄りを先行していたのであるから、このような場合後続する自動車の運転者は、前方を注視するとともに、彼此の速度をはかり、前車に追突しないような安全な速度で進行するべき注意義務があるのに、被告青島は、これを怠り、前方を注視しないまま、原告車の速度をはるかに超える高速で進来した過失により、二米余の距離に迫つてはじめて追突の危険を覚え、急制動措置を採つたが及ばず、本件交通事故を惹起したものである。

(三)  被告和羅の地位

被告和羅は、和羅工業所の名称で左官工事請負業を営み被告車を保有し、その被用運転手である被告青島に業務上運転させ、もつてこれを自己のため運行の用に供する者である。

(四)  原告の蒙つた損害

(1)  受傷の部位程度および加療の経過

原告は脳挫傷兼右肩部打撲傷をうけ、直ちに東京都墨田区向島所在の救急指定大島医院に収容され、診療をうけたものの、昭和四〇年四月一七日頃同医院を退院するまで約二箇月間にわたり、意識障害と四肢麻痺とが持続し、その頃同都板橋区大谷口上町所在の日本大学医学部付属板橋病院(以下日大病院という。)に転じ入院加療を続けるうち、意識障害は次第に回復したが、依然四肢麻痺を遺し、昭和四一年四月二六日同病院を退院するまで一年間余にわたつて軽快せず、さらに同日長野県小県郡丸子町所在の鹿教湯温泉療養所(以下鹿教湯療養所という。)に転医し現に入院加療中なるも、四肢の運動不能であつて、将来に至るも回復の見込はない。

(2)  入院治療費合計二二四万一三二七円

(イ) 大島医院に対する支払分(自昭和四〇年二月一六日至同年四月一七日)四九万七四四〇円

(ロ) 日大病院に対する支払分(自同年四月一七日至昭和四一年四月二六日)九九万九六一一円

(ハ) 鹿教湯療養所に対する支払分(自同年四月二六日至昭和四二年三月二〇日)七四万四二七六円

(3)  附添看護費合計二二六五万九四二二円

(イ) 附添看護を必要とする事情および附添看護方法ならびに附添看護者

原告は、前記のとおり意識障害を回復したのちも、脳挫傷により四肢が麻痺し全くその用をなさず、自力では日常生活の動作もできないため、附添人によつて看護・介助をうけざるをえず、しかも終日不断のそれを要するから、附添看護者は二名で昼夜交替勤務せざるをえない。ところが原告の如き重症者に常時二名の附添看護者を確保することは、時に困難であり、とりわけ鹿教湯療養所における加療期間中は極度の求人難から、原告の母源川みやにおいて看護・介助に専心従事せざるをえなかつた場合もある。かようにして昭和四〇年四月一七日から昭和四二年三月二〇日までの間、原告が職業附添婦に現実に支払つた費用および母みやに支払うべき職業附添婦の賃金相当額は左記(ロ)のとおりであるが、二名の附添者による終日不断の看護・介助を要する状態は、終生にわたるから、昭和一六年一一月四日生まれの独身男子である原告は、二五才六月に達した昭和四二年五月五日(以下基準日という。)から、その平均余命43.66年間にわたり毎月九四万九〇〇〇円(職業附添婦の認可賃金日額一三〇〇円の割による年額四七万四五〇〇円の二名分)を支出せざをる得ないから、右四三年間に支払うべき賃金総額からホフマン式計算方法により年毎に五分の割合による中間利息を控除し、前記基準日における現価を求め、さらに最初の一年分を控除すると、左記(ハ)の金額となる。

(ロ) 入院中の費用合計二一〇万五七九〇円

(ⅰ) 日大病院入院中の分八五万七四二〇円(自昭和四〇年四月一七日至昭和四一年四月二六日毎日二名の職業附添婦に支払つた賃金、交通費、紹介手数料)

(ⅱ) 鹿教湯療養所入院中の分一二四万八三七〇円(自昭和四一年四月二六日至昭和四二年二月六日間けつ的に一名または二名の職業附添婦を雇入れ支払つた賃金等合計三四万三八六八円、右期間中職業附添婦が一名であつた期間およびその雇入れをしなかつた期間ならびに概ね昭和四二年二月七日以降同年三月二〇日まで前記源川みやが専従附添つた場合の職業附添婦の賃金相当額日額一二〇〇円の延二一六日分合計二五万九二〇〇円、前記療養所では温泉入浴治療を主とするため、重症の原告には前記職業附添婦のほか同療養所所属の補助附添婦の補助を要し、これがため昭和四一年五月一日から昭和四二年三月二〇日までに療養所に支払つた金額合計二二万三八五〇円昭和四一年四月二六日から昭和四二年三月三〇日までの間療養所に支払つた職業附添婦、母みや等附添人宿泊料四〇万二六〇〇円およびこれに附随する費用一万八八五二円)

(ハ) 昭和四二年五月五日以降将来の附添人費用二〇五五万三六三二円

(4)  逸失利益 一三八五万五七八〇円

原告は本件事故発生当時、二三才の健康な独身男子で、米穀商有限会社源川商店に従業員として勤務し、本給月額三万一〇〇〇円と年二回の賞与(少くとも毎回本給の一箇月分以上ずつ)を得ていたものであるが、その配達業務に従事中蒙つた本件受傷により終生就労不能になつたものの、本給については昭和四一年七月末日分まで全額、賞与については昭和四〇年七月に三万五〇〇〇円、同年一二月に一万円の各支給をうけた。ところが原告は脳挫傷による後遺症のため、四肢の用を全く廃するに至り、終生回復の見込はないから就労もまた終生不能で、これにより一切の就労による得べかりし収入を失つた次第である。その数額は、少くとも(イ)(ロ)左記の合計一三八五万五七八〇円に達する。

(イ) 昭和四一年八月一日から昭和四二年四月末日までの間につき本給月額三万一〇〇〇円の九箇月分二七万九〇〇〇円

(ロ) 昭和四二年五月一日以降の逸失利益 一三五七万六七八〇円

原告は概ね二五才六月に達した昭和四二年五月一日から六三才余に達するまでの三八年間にわたり、最初の一年間は本給合計三七万二〇〇〇円、賞与合計六万二〇〇〇円を得た筈であり、その後は、我国現下の労働状勢と物価変動の実情とに照らすと毎年健康な男子労働者の本給月額は少くとも一〇〇〇円ずつ昇給するべく、その賞与も年二回毎回少くとも本給の一箇月分は支給されるものと推定されるので、原告もまた遂年右程度の本給上昇と賞与増額とを享受しうる筈であるから、ホフマン式計算方法に従い、年毎に五分の割合による中間利息を控除し、右昭和四二年五月一日における逸失利益総額の現価を算出すると、頭書金額となる。

(5)  慰藉料五〇〇万円

原告は、本件受傷による四肢麻痺のため、日常生活の起居動作もできず、両便、食事、洗面、更衣等の一切を挙げて附添人に依存せざるを得ず、優に春秋に富む生涯を床上に横たわつたまま暮し、結婚生活も社会生活も断たれた死にまさる苦悩と絶望の日々を過さなければならない。この精神的苦痛の慰謝料としては少くとも頭書金額が相当である。

(五)  原告は本件受傷により以上合計四三七五万六五二九円の損害賠償請求権を有するところ、被告和羅から一一六万円の交付をうけ、自賠責保険に基く後遺症給付として、一〇〇万円を受領したので、これらを控除した残額四一五九万六五二九円のうち三一〇七万二五四〇円およびこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払を被告らに求める。

三、被告らの答弁および抗弁

(一)  原告主張の請求原因(一)のうち追突の際原告車が進行中であつたことは否認し、その余の事実は認める。同(二)は否認する。同(三)は認める。同(四)のうち、原告がその主張日時に大島医院および日大病院に各入院加療したことは認め、右入院中および退院後も常時二名の附添者を要したことは否認し、その余の事実は不知。同(五)のうち、被告和羅が原告に損害填補のため一一六万円を交付したことおよび原告が自賠責保険金一〇〇万円を受領したことは認める。

(二)  本件事故は原告の過失により発生したものであり、当時被告青島に過失はなく、また、被告和羅は被告青島に対し、平常交通法規を遵守し、もつて事故発生を未然に防避するべく充分に注意を与えていたものであり、さらに被告車は昭和三九年一〇月二八日購入したばかりの新車であつて、構造上の欠陥も機能の障害もなかつた。

当時被告青島は被告車を運転して、本件事故発生現場の二〇〇米位手前から原告車に追従進行していたもので、後続車の追従することを原告も知つていたのでから、このように場合先行車両の運転者は、手、方向指示器または燈火によりその旨合図して停止し、もつて後続車の追突を防止すべき注意義務があるのに、原告はこれを怠り合図をしないで急停車したため、本件事故を招来したものである。

(三)  仮りに被告青島に車間距離不保持の過失があるとしても、右のとおり原告にも本件事故発生につき過失がある。

(四)  被告和羅は、昭和三九年一〇月から昭和四〇年四月頃まで結核病加療のため入院中で、家族七名の生計を辛うじて維持しうる程度の困窮状態にあつたものの、原告の受傷加療費支払のため、少額の貯金もすべて払い戻しをうけ、月収約一〇万円のうち毎月約六万円ずつを支払い続けたものであり、その総計は一七六万六二三〇円(大島医院に対する分合計三七万円、同医院入院中の附添婦に対する分合計一六万七四〇〇円、国民健康保険組合に対する分合計六万七三三〇円、寝台自動車賃一五〇〇円、および原告の自陳分一一六万円)に達する。なお被告青島もしばしば原告を見舞い、見舞金五〇〇〇円のほか合計約一万三〇〇〇円相当の氷を持参したものである。また被告青島は昭和四〇年九月一六日業務中左踵骨骨折の傷害を蒙り、昭和四一年二月一五日まで入院加療を余儀なくされたものであるが、このため給付された労災保険金一二万四三〇〇円を、前記一一六万円の一部に充てたものである。さらに被告和羅の妻と被告青島の母も原告に附添い看護をした。以上の事実は賠償額の算定にあたつて併考されるべきである。

四、〈証拠略〉

理由

一責任原因

(一)  昭和四〇年二月一六日午前九時二〇分頃、東京都墨田区向島三丁目四一番地先の都道において、原告運転の原告車の後部に、折柄北進して同所にさしかかつた被告青島運転の被告車が追突し、原告車もろとも原告をはねとばし、よつて原告に対し傷害を与えたことは当事者間に争がない。

〈証拠〉に弁論の全趣旨を総合すると次のとおり認められる。

(イ)  本件事故発生現場は、南方東武線業平橋駅方面から北方同線曳舟駅方面へ概南北に通じる通称曳舟通り上で業平橋駅の北方約二〇〇米の地点にして、道路中心部のやや西寄りに位置し、車道西側端とは約六米の間隔があること、該道路は、両側に各約2.7米の歩道を控え、車道幅約14.1米、アスファルト簡易舗装の路面は、概ね平坦ながらところどころに浅い凹損箇所があり、中心線の標示もないが、直線路で、両側は二階建程度の住宅・店舗が櫛比するにすぎず、見とおしはきわめて良好であり、北面して望見しうる範囲には、信号機の設置されている場所もなく、比較的交通閑散で、指定最高時速四〇粁、特定時間帯駐車禁止等の交通規制がなされているだけである。なお、現場附近において、幅二米の小路が東方に分岐するほか、その北方約一〇〇米の地点にも東方への分岐道があり、本件道路を北進して、原告方(米穀商有限有社源川商店)に行くには、早晩右折して、これら東方への分岐道に進入しなければならないこと。

(ロ)  原告車は第二種原動機付自転車であつて、本件交通事故発生当時、後部荷台に竹で編んだ角型の籠を積んでいたものの、その高さは約四〇糎、幅約五〇糎程度であつて、坐つて運転する成人男子の後背部から殆んどはみださない位の大きさであつたこと、バックミラーは、回転する構造の槓桿に支えられた概円形の大型のもので、左右のハンドルにそれぞれ取り付けられており、また制動操作を行うと、自動的に点灯する赤色灯が車体後部に設けられていること、他方被告車は、1.5頓積みの三九年型トヨペットで、車幅約1.7米、車高約1.9米、右ハンドルで、フロントガラスは車幅一ぱいに広開し、また車体前部は、切りたてたようにほぼ垂直であるところから、運転者の前方視野は最大限に確保されるような構造をなしていること。

(ハ)  本件事故発生当時は、晴天で微かに北風が吹いており、路面は乾燥しており、また北進する車両も南進するそれも殆んどなく、交通はきわめて閑散であつたこと。

(ニ)  被告青島は被告車を運転して、本件道路を北進していたものであるが、前記業平橋駅附近から、これも北進中の原告車に追従することとなり、道路中央部分のやや左寄りを直進する原告車のまうしろに追尾し、その動静に深く配意せず、五、六米位の車間距離を保つただけで漫然時速四〇粁位で、約二〇〇米の間追従進行するうち、原告車の後尾灯が点灯したので、減速しはじめたことに気付いたものの、進路を変え左右いずれかの路地に進入するものと思い、なおそのまま五、六米位進行したところ、原告車が左右いずれにも進路を変えないで北面直進しているのに気付き、とつさに危険を覚え急制動措置を採つたが及ばず、六、七米位スリップした末原告車の後部に自車右前部を衝突させ、これを前方に押し出したのち、横転させたこと、他方原告は、前記竹籠に米穀を入れ、近隣の得意先に配達しての帰途、本件事故発生現場にさしかかつたものであるが、減速のうえ、僅かにハンドルを右方に転じた際、追突されたため、跨坐したまま少くとも数米前方に押し出されたこと、減速するに至つたのは、原告方へ帰るべく、早晩しなければならない右折または右転回の準備行為をしていたものであること。

〈証拠判断略〉

右事実によれば、このような場合被告青島は、原告車の動静に注意を払うと共に、原告車が急に停止したときにおいてもこれに追突するのを避けることができるため必要な距離を、これから保つべき注意義務があるのに、これを怠り、五、六米の車間距離を保つただけで、漫然直後を追従し、しかも原告車が減速したのであるから、自車もまた直ちに減速し、追突をさけるべきであるのに、原告車の道路変更により追突を回避しうるものと軽率に期待し、自車の速度を減じなかつた過失により、本件事故を惹起したものである。なお当時原告においていわゆる方向指示器による合図をしないで、急停止して点で、本件事故発生につき原告にも過失がある旨被告らは主張するが、原告車が急停止したことを認めるにたりる証拠はなく、一方方向指示器による合図をしなかつたものと推認されるけれども、前示のとおり原告車が減速徐行したことは、自動的に点灯した後尾灯により被告青島自身現認したところであるから、いわゆる方向指示器または手による合図を要すべき進路変更を当時原告においてしていたことを認めるに足りない本件では前記被告らの主張は、その前提を欠くものといわなければならないから、到底採用できない。(仮りに被告らの主張が原告において減速したこと自体をもつて本件事故発生につき過失があると附会するものとすれば、現下の交通事情および車間距離保持、前方注視、安全運転の各義務の法意に照らし、主張自体理由がないものと解する。)

(二)  原告主張の請求原因(三)は当事者間に争がない。

(三)  よつて被告青島は直接の不法行為者として、被告和羅は自賠法三条所定の運行供用者として、本件傷害交通事故により原告の蒙つた損害をいずれも賠償する責に任じなければならない。

二原告の蒙つた損害

(一)  受傷の部位・程度および加療の経過

〈証拠〉を総合すると、次のとおり認められる。

(イ)  原告は、昭和一六年一一月四日生まれで、幼時から健康に恵まれていたうえに、スポーツを好み、学校時代にはマラソン選手にえらばれ、大学卒業後、家業に従事してからも、野球、ゴルフ、マラソン等により身体の鍛錬を心掛けていたため、本件事故発生当時は、二三歳の強健な独身男子であつたところ、脳挫傷兼右肩部打撲傷をうけ、直ちに東京都墨田区向島所在の救急指定大島医院に収容され診療をうけたものの、意識はなく、四肢麻痺し、けいれん発作をくりかえし、また急性肺炎をも併発し、極度の重篤症状に陥つたまま推移したが、当時同医院の設備と環境とは、安静を妨げ勝ちであり、また主治医本間正和は日大病院脳神経科をも兼務するため、同病院に転医することとし、脊髄圧がやや低下し小康を得た昭和四〇年四月一七日頃、なお意識障害と四肢麻痺とが持続していた状態であつたが、寝台自動車によつて搬送されたこと。

(ロ)  日大病院では、リンゲル、ぶどう糖液の注射等の治療を連日施用され、内服薬の投与と栄養の補給は鼻部に挿入されたゴム管からの点滴によるほかなかつたが、四肢麻痺下に長期臥床を余儀なくされたため、蒲団に接触する部分には各所に褥創を生じ、とりわけ仙骨部のそれは径一〇余糎に及び、一見腰骨に達するほど深くなつたので、これら褥創の手当をも要する一方、頻繁に体位をかえることにより褥創を予防する必要を生じ、またこの間数回肺炎を併発し、容易に重篤域を脱しなかつたが、同年七月頃に至つて意識障害は次第に回復し、医師の指示に従い、口唇を開閉し、舌を出す等の動きができ、さらにヨーグルト等を少量なら嚥下できるようになつたが、四肢麻痺感は持続し、排便感覚も未だ回復せず、発語することもできなかつたが、危篤状態を離脱したので、同年九月頃から特効新薬を注射し始め、その奏功により、同年一〇月下旬頃に至つて、はじめて「痛い」という言葉を発語し、その頃からさじで口に入れられると、流動食も摂取できるようになつたが、液体物を供与すると、むせび窒息するおそれがあつたこと、四肢中右上肢がふるえつつ僅かに曲がる程度で、他の三肢は曲つたまま動かなかつたが、発汗機能に障害を生じ、昼夜をわかたず多量に発汗し、附添看護者は着衣交換に心労したこと、栄養摂取につれ褥創は軽快し、発声時間も次第に長くなつたが、意識障害の回復に伴い、しばしば領解困難な発声をして興奮し、睡眠時間が少くなつたこと、昭和四一年四月下旬頃に至り、日大病院の所属医師は温泉療法に期待し、鹿教湯療養所に転ずるべき旨を指示したので、なお仙骨部に径五糎位の褥創をとどめ、四肢麻痺し、運動性失語症、構語障害等の言語障害を有するまま、同月二六日寝台車で同療養所に転じたこと。

(ハ)  右療養所に入所後三日目位に、疲労と興奮による睡眠不足とのため、一時けいれんを伴う窒息状態を呈したことがあつたが、応急措置により危篤状態を脱したこと、その後、治療はいわゆる温泉療法とマッサージとのほか、理学療法、初歩的巧緻訓練(リハビリテーション)を行い、栄養補給による体力の増強をまつ療養生活を続けたが、同年一一月に至るも両下肢および左上肢は、自発動作不能で、他動には疼痛を訴え、かつ屈伸範囲に制限があり、自力による歩行・起立はもちろん、介助によるそれも全くできず、補助装具を装用しうる適応もなく、以上三肢はその用を完廃したものと診断され、会話は可能であるが、失語症を残し、簡単な物品名等の表声にも五ないし一〇秒を要し、しかも発声時間は2.5秒ないし五秒間持続するにすぎず、応答不能で殆んど意味のない自発言語状態であつた入所当初に比較すると、多少症状好転するも、それはリハビリテーション等の効果ではなく、脳浮腫の自然減退により招来された結果にすぎず、通観すると、原告の症例は、同療養所でのリハビリテーション治療に適応しない程度の高度の重症度に属するものとの診断をうけたこと、なお温泉療法を主とする同所では、概ね隔日に入浴を要するところ、原告の入浴方法は、起重機様の機械で臥床した原告をベッドごと吊りあげたうえ、これを水平に移動して広濶な浴槽上に位置させ、さらに垂直に降下入浴させたのち、逆順で複する仕方(ハーバートタンク方式)によるほかなく、数名の介助者を要するものであること、その頃原告は医師らの姿をみると「すみません」などと口走しる一方、自己の非運を慨嘆したり、脅迫観念と幻覚とに悩まされ夜間大声を発することも稀ではなく、腰部・股部の筋肉も骨化したためベッドに起きることもできず、液体を飲用するとむせぶ傾向が続いたため、附添人がさじで与える食事時間は長びかざるを得ない等、原告に附添看護する者の苦労も多大であつたので、職業看護婦らも嫌がり、長続きしなかつたこと、症状軽快しないまま昭和四一年を越し、昭和四二年二月頃特別製の車椅子を購め、これに乗せられ、附添者が押すことにより移動できることとなつたが、同年九月一一日頃同療養所附属研究所に転じ、脊骨髄炎の手術をうけたところ、褥創は次第に軽快し言語障害もかなり回復したが、四肢麻痺は改善するに至らず、現に療養中であること、右上肢を除く、三肢の運動不能状態は、終生回復の見込はなく、右上肢の運動機能の回復もきわめて困難であつて、不断の介助を要するが、いわゆる生命には別状なく、同年令者に比してその平均余命を下回わるものとは推定されないこと。

(二)  入院治療費合計二二四万一三二七円

〈証拠〉によると、原告は受傷加療のため、昭和四〇年二月一六日から昭和四二年三月二〇日までの間、その主張どおりの治療費を支払つたことが認められる。

(三)  附添看護費合計一二八二万五七九〇円

〈証拠〉に弁論の全趣旨を総合すると原告の蒙つた受傷の部位・程度および加療の経過に徴すると、昭和四〇年二月一六日の受傷当日から昭和四二年三月二〇日までの間は、附添看護または介助に常時二名もしくは三名の者を必要としたこと、これがため原告は職業看護婦のほか、附添者を雇い入れ、またほぼ終始実母源川みやが家業の米穀商の手伝と家事とをかえりみず、附添看護・介助をなしていたこと、このため(イ)大島医院入院中は佐々木ハツほか三名の附添婦に合計一六万七四〇〇円を支払い、(ロ)日大病院入院中は、大川照子ほか七名に合計八五万七四二〇円を支払い、(ハ)鹿教湯療養所入所中は、神保好恵ほか五名に少くとも合計三四万三八六八円、同療養所所属の補助附添婦に合計二二万三八五〇円を支払つたほか、前記源川みやにおいて附添看護した延日数は二一六日であつて、その頃附添婦の日給は少くとも一二〇〇円程度であつたこと、この間雇い入れた職業看護婦・附添婦および源川みやにおいて、療養所に宿泊したため支払つた代金は、合計四〇万二六〇〇円に達し、また冷蔵庫・テレビ・扇風機等の賃料および飲用した牛乳代等雑費は一万八八五二円であること、原告は二五歳六月に達した基準日から概ね六九歳に達するまでの四三年間生存し得、この間少くとも一名の附添看護者を要し、毎年四七万四五〇〇円程度を支出せざるを得ないことは明らかである。

そして本件全証拠によると、原告が二一六日間にわたり源川みやの附添看護をうけたことによる財産上の負担を金銭に評価すると、少くとも合計二五万九二〇〇円(日額一二〇〇円の割合)にあたるものと算定すべく、前記基準日以後支出すべき附添看護費総計の現価は、概ね一〇七二万円(年毎に五分の合割による中間利息を控除し、かつ万円未満切捨)となる。

以上のうち、(イ)は被告らにおいて支払つたものであり、原告において本訴請求から予め除外しているから、これを控除した残余の合計額は、頭書金額となる。

(四)  逸失利益合計一一六二万九〇〇〇円

〈証拠〉に弁論の全趣旨を総合すると原告は父源川弥太郎、母みや間の長男で大学卒業後、父母の主宰する米穀商有限会社源川商店を手伝い、名目的には専務取締役ながら、小規模の個人的企業である同店では、販売・配達係の従業員として勤務し、本給月額三万一〇〇〇円と年二回の賞与(少くとも毎回本給の一箇月分以上ずつ)を得ていたものであるが、本件受傷により終生就労することができなくなつたこと、ところが本給については昭和四一年七月末日分まで全額、賞与については昭和四〇年七月に三万五〇〇〇円、同年一二月に一万円の各支給をうけたこと、本件事故に遭遇しなければ、原告は少くとも (イ)昭和四一年八月一日から昭和四二年四月末日までの間就労し、本給合計二七万九〇〇〇円程度を得、(ロ)さらに概ね二五歳六月に達した昭和四二年五月一日から、六三歳に達するまでの三七年間にわたり、最初の一年間は本給合計三七万二〇〇〇円、その後は年毎に月額一〇〇〇円程度昇給する筈(最終年度における月給額は六万七〇〇〇円)であるから、昭和四二年五月一日における収入総額の現価一一三五万円(ホフマン式計算方法に従い、年毎に五分の割合による中間利息を控除し、かつ万円未満切捨)を得たものと推定されるところ、これら就労により得べかりし一切の利益を失い、同額の損害を蒙つた筋合である。(原告は将来にわたつて賞与をも失つたものと主張するが、源川商店は小規模の個人企業にすぎず、その社業の基礎の強固さ等について、特段の立証がない本件では、就労期間中確実に賞与をうけうるものと推定することはできない)

(五)  慰謝料四〇〇万円

本件全証拠によると、原告が既に蒙り将来にわたつて蒙るべき精神的苦痛はまことに甚大であつて、被告らがその主張のとおり原告のうけた損害の填補にかなりの誠意をみせていることを考慮しても該苦痛を慰謝するには、四〇〇万円が相当である。

(六)  原告は本件交通事故による受傷のため、被告らに対し、以上(二)ないし(五)合計三〇六九万六一一七円の損害賠償請求権を有するところ、被告和羅から一一六万円の交付をうけ、いわゆる自賠責保険金一〇〇万円を受領したことは、当事者間に争がないから、これらを控除すると、その残額は二八五三万六一一七円となる。

三よつて被告らは連帯して原告に対し、二八五三万六一一七円およびこれに対する本訴送達の日の翌日であることと記録上明らかな昭和四二年六月八日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務があることは明らかであるから、原告の本訴請求は右の限度で正当として認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条、八九条、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して主文のとおり判決する。(薦田茂正)

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